「脳」整理法

「脳」整理法 (ちくま新書)

「脳」整理法 (ちくま新書)

私の場合、読んでいてツマラナイ本は、30ページ位で「もう、やめた」となる中、久々に読み終えた新書。まず、文章が読みやすい。テレビに出ているのを見て「コイツは、変なヤツだ」と思っていて読んでみたけど、やっぱり変だった。同じ事を僕が飲み屋で話したら、「え?」ってなりそうだけど、その「え?」に価値があるんだと僕は常日頃おもっています。想像的裏切り行為は、他者なくしては得られず。

にわとり以下のあなた。

http://blog.livedoor.jp/niwatori5555/archives/50879871.html

上記のエントリでは、パフォーマティブな言葉の利用について、人を幸せにするウソをドコまで許容するか、結果から理屈を作る手法の良し悪し、のような点について言及されていますが、ここでは、異なる視点*1から、「貴方のニワトリ以下の生活」について。

鶏は、本当は冬は卵を産みません。日が短くなると産卵ホルモンが止まるようにできているのです。ところが人間は冬も卵が欲しいので、ライトをつけて冬も産卵を続けさせます。

 しかし、そうやって無理に産卵を続けさせても、いずれ限界がやってきます。割れやすい変な形のカラになったり、サイズが大きくなりすぎたり、産卵しない日の頻度が高くなったりして、結局その鶏群からはあまりいい卵が得られなくなります。そこで、完全にダメになってしまう前に、人間の都合のいい時期に産卵を休ませるのです。

養鶏では、卵を産ませる事が目的の鶏により多くの卵を産ませるために商品価値のない卵を産む鶏にはラマダンを経験さた後に餌を与え栄養の吸収率を上げ鶏を超回復させる裏技的手法が紹介されているが、貴方は、完全にダメになってしまう前に休みを取る事はできるだろうか。
市場で評価される卵を産む事は鶏に限った話ではなく、人間の生活においても多くの時間をこの「卵を産む」ために使っているのは間違いない。毎日では無いが卵を産まず生き続ける事は、大変難しい。しかし、すでに卵の形は変形し始め市場価値の下がった卵を産んでいるが、生み続けないと生きていけない養鶏場*2から抜け出すことが出来ない状況になってはいないだろうか。考えるべき点が沢山あるように思う。
ここで言う卵とは決して金銭的価値における話だけではなく人間関係や生き方にも関与すると考えると、とてもヒトゴト*3とは思えない。親族関係に心を痛めている人、毎朝デパスを噛んで会社に行く人、そのような様々なストレスの蓄積は、知らない間に積み重ねられていく。もちろん、ストレスがあるからこそ前向きな人生があると思うけれど、「割れやすい変な形」になっても卵を産み続ける必要はおそらく無い。人はニワトリとは異なり自分の意思を持って休養を取る事が出来る。しかし、それを許さない環境が世界中に無数に存在している。その時、許さない環境に順応したかの様に振舞いながら変形した卵を産み続けるか、それとも自主性を持ったシカト行為*4が取れるかは、一つの分岐点となる。
許さない環境を構成している人々*5を全部攻め立てる事は出来ない。なぜならば、それは疲れていたとしても、その人々に対して好意的でない事と同義では無いから。そして、全ての環境を否定する事は他の意味を持ち、結果については語るべきでない。けれど少なくとも追い詰められた他者を発見し、自主的なシカト行為の対象として選ばれたなら、「大丈夫?」などと安易な言葉をかけるのではなく、そのシカトを柔らかく忍耐強く受け止められる事の方が「優しさ」に近いと私は思う。逆の言い方をすれば、全ての環境をシャットダウンさせるのは、心無い安易な「大丈夫?」である。忍耐の結果として離散してしまう事もある。だとしても人間の間に生まれる共有感覚や信頼と言うものは、そんなに簡単になくなってしまうものではない。*6だからきっと、離散の後にまた出会うだろう。

最後に、最後の段落を読んでいて「何、クサイ話してんの?」と思った貴方は、産んでる卵にウンコがベットリとついていないか、少し考えてみてください。

*1:というか、同じ話かもしんない

*2:社会や会社や人間関係

*3:ニワトリゴト

*4:誰かをシカトするのではなく、自ら自分がシカトされている状態に選択的になる行為

*5:ヒトだけとは限らない

*6:テレビでやってるドラマとは違う。無言語環境で成り立つ感覚

「不意にやる気がなくなる」その理由とは?

http://blog.tatsuru.com/2006/12/19_1116.php

内田氏(これ以降はウッチーと記載します)*1が、このエントリーで言っていることを私なりに解釈をすると、「若者のみなさん、ごちゃごちゃ言わずにまずは得られた働き口で自分の力を発揮してみてください。その後に仕事とどんな風に向き合っていくかを考えてください。まだ、何も始めていないのに、もしくは、先入観などによって、ヤル気を失うのは、ワガママです。だいたい仕事とはツマラナイ作業です。そして楽しい作業が仕事になるのは、今そのツマラナイ仕事を続けていく事で開眼するかもしれません」という前向きな話だと思う。それをこのような論調で書くのは、若い人間に肯定的であるよりも否定的な切り口で語るほうが、若者からの反発が得られ、「爺さんにごちゃごちゃ言われるのは嫌だ」という理由で動き出す人が少なからずいると思っていると、私は、そう思う。たしかにジジイは、口うるさいがPeer to Peerで話をすると負けそう位が嬉しい。バブル世代な40過ぎの永久にツマラナイ話よりは、生産的。
しかし、不意にヤル気が無くなり無職になる可能性を考える人間がいるのは、仕事に対してやりたいことが出来ず(やりたい職種でなく)ヤル気が無くなるからではなく、仕事にやりがいを求める理由に変化が訪れているからだと考える。それは、物質的な対価によって得られる幸せが底をつき始めており、カネでは得られないエクスタシーを仕事に求める傾向だと考える。逆に言えば、自分が気持ち良ければ、職種はなんでも良いという傾向。実際にデザイナーになりたくてなったけど、思ったような快感が得られなければ、ヤル気は無くすような。*2
バブル崩壊以降の世代として感じるのは、自分の親の世代では、常にある程度の成長を保ち、今までに無い生産物(三種の神器)などが登場し、働く事でリアルな生活環境に変化があった。テレビは、最初ダイアル式だったが、次のテレビではリモコンが登場し、その次のテレビは薄くなって大画面になった。遊びも急速に多様化し、スキーやサーフィン、海外旅行にも行ける様になり、働いた成果として自分が求めている新しい事をを手に入れられた。けれども、バブル崩壊以降の世代にとっては、これらの経験は全て子供のうちに済んでしまっていて、働いて得られた成果を自分の為に使う窓口が少ない。というか、子供の頃に経験した生活を一人で維持する事さえもすでに難しくなっている。これに対して「裕福な時代に生まれた子供達が贅沢を言っている」というのは、おかしな話だと思う。その時代に生まれた事は偶然で、生んだ親が進化していく様を隣で体感していた事が避けられた事とは誰も言えないはずだし、親は自分の知っている新しい世の中を子供に教える事を惜しむ理由も無い。その為、働いた事に対する対価の上昇だけではなく、その仕事をやっている事に対する充実感を求めるのだと思う。
この「仕事で充実感を得る」という発想をまず止めるのが話が早いと私は思う。人生において仕事が占める時間の割合は大きいが、それに100%打ち込まなければ良いだけの話である。隣の席の人間が200時間以上働こうと貴方は6時に毎日帰れば良い。与えられた仕事の分量が多ければ、法定時間内で終わらせる為の工程表でもつくり、期間をもらえば良い。憲法で働く事が義務だとするならば、義務の範囲で仕事をこなせば良い。そうすると会社のジジイ達はこんな風に言うでしょう。「生産性があがらない」「正社員としての自覚が足りない」「会社への貢献度が低い」このような社会や会社への帰属意識を振りかざす団塊の世代には、こんな風に言いたい。「貴方達が学校の講堂にこもったように、僕たちは家の中にこもるのです」「社会に対するフラストレーションが火炎瓶を投げても解決できないみたいだから、何もしない事で戦っているのです。」隣の席の人間が200時間働いている時間も「もったいない」し、それに付き合って帰れないヤツはバカだし、「一生懸命かどうか?」という物差しで判断する上司には、母親のケツの毛でも抜いていろと言いたい。
結局は仕事における中毒症状を賛美したり、依存性を自慢したりする考え方が大きく影響していると考えます。これらの中毒から脱却した事を責めない社会にする事で、憲法の義務の範囲で仕事くらいするかなぁと思えるようになるのでは。と。

*1:高校時代の友人がアクドイ代理店業であり、飲んだくれであり、麻雀打ちである著名人にはユーモラスで好意的な呼称の方があっていると思うので

*2:ここで言う快感とは、「周りの人に頼りにされている・好かれている」など、かなり無価値なものだったりする事も良くある。そんなヤツは、迷惑だからとっとといなくなって欲しいというコチラ側の話もある。

鎖の自慢

http://d.hatena.ne.jp/ochame-cool/20061217/p1


「僕は貴方より沢山働いている」を測る方法は、時間ではない。時間の長さで「私はこれだけ頑張っている」と言うのは、いかに中身の薄い時間を過ごしているかの裏返しであって、人生の有限な時間を無駄に過ごすように仕向けらた愚民政策に多くの人が乗っかっている事を示しているように感じる。


どれだけ貴方が頑張っているかは、それに打ち込んでいる時間の長さで測れるわけで無いし、打ち込んでいる作業では、いくら時間をかけたとしてもそれに対して不満は少ない。多くの時間を割いている事に不満を感じるのは、その時間を本当は他の事に割り振りたいという欲求がある事を示していると思う。しかし、その欲求を履行する為に必要なのは、実は時間ではなくカネであって、そうなると本当は時間を持て余している。
「カネも無いのに時間だけあってもどうにもならない」
この心理につけこんでいる。


カネは、例えば自分で作れるスパゲッティーをコンビニで購入する様に、時間を買う為に使われる。スパゲッティを作るにも小麦が必要で全てを一人でまかなう事が出来ない時間的な制限を乗り越える為にあり、カネは効率的な生活と分業を提供する。問題は、この高効率化された生活時間の中で新しい発見をするのではなく、持て余した時間を金銭と交換し、さらに効率的な時間を過し、そして持て余した時間を無駄に過し金銭と交換するという奴隷的ライフサイクルにあると思う。このライフサイクルに私を含めて全ての人が少なからず帰属しており、その中でも中毒症状が顕著な人々や均一である事だけに安心感を感じる村民感覚は、「隣のアイツも奴隷だから、オレも奴隷で良いだろう」「ここにいれば、とりあえず時間1500円になる」方が良い奴隷的発想の蔓延により、ホワイトカラー・エグゼンプションに反対している。


もちろん、雲の上の人々がそれを見越して言っているわけだから、反対をせざるを得ない状況だけれども、本質的には、この奴隷的発想、村社会的共通意識から脱却し、持て余していると思われる時間を効率化によって忘れてしまった作業に再割り振りするかを議論するべきだと思う。会社の自席に夜遅くまで座っているのではなく、家に帰り夕食後の皿洗い、洗濯を畳む。何でも良い。そのような身体性のある時間の流れの中で突発的な「気づき」をもって理解がもたらされたり、身近な他者とのコミニケーションを促進したりする価値は、カネで得る事が難しい。

成功に飽きる。欲望に飽きる。

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20061212/1165860267

同じようなことを思った事がある。レコードを1枚リリースした後のことだった。この出来事を「成功」とは感じなかったけれども、10年くらい続けてきた事に対して1つの結果と目標に達した。その後、機材を触るモチベーションは下がった。1年間は何の為にやっているのか、もう一枚リリースする事を目標にも出来ず、それより高い「超有名」になる目標を立てる気にもなれなかった。簡単に言えば、「機材、売ってもいいかなぁー」と思った。それが意味するのは、もう辞めちゃおうかと。けれどもこの小さな目標を達成した事でこれが音楽を続けている理由では無い事に気がつく。


こんな言い方をするのは恥だけど、私が機材を触るのは音楽が好きだからであって、レコードを出すのが目的ではない。成果物に対するフラットな評価は気になるけれど、人に気に入ってもらう事が主目的ではない。主目的は、各論的にはツマミをグリグリやることであり、それで縮んだり膨らんだりするdelaytimeに酔いしれる事であり、その結果としての直近の成果物が以前の成果物と同じかそれ以上に自己評価できること。うわ言を言えば、音楽に取り組む中で発生する心のバイオリズム調整である。なので私にとって機材に触る時間が至福のとき


趣味なのか仕事なのかという疑問は不毛だと思う。端的には生活できる金銭を得られれば仕事である。趣味とは個人的な喜びが得られる行為。これを両立させるのが無理ならば、当面は趣味かもしれない。もちろんそのままで良いとも思う。けれど、それはきっとネットワークが変えてくれるというか、ネットワークによってチャンスは永久に発生していて、参加のハードルも著しく低くなった。情報の玉石混合の問題を解決するシステムが進化するのと同じように成果物の玉石混合もやがて解消され、ロングテールに日が当たるようになり、本業としてと言うよりは副業としての趣味になる。


また、成果物の品質的クオリティは、続ける事で学ぶ職人的作業もあり、このスタンスで私は機材を触るのが楽しいし、未来が楽しみで、これをシナジー効果と呼ぶのかな。

ウェブ人間論

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_a97b.html
比較的肯定的意見のように読み取れる。しかし、文章が長く感じられる。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/44d1371944653362ef9a7b864d01faeb
とりあえず、「間違っている。」「おかしい話だ」で始まる池田先生。本書の内容にあまり触れていないが、批判的。


二つを読み合わせてどちらに軍配があがるかというと村社会日本では-自民党的な方-すなわち前者が当選する。池田先生のやり口には、やり過ぎというか、パッと得られた情報で思いのたけを語るというか、学者感覚を損なっている時がありますが、物事を前向きに考え、「きっとこうなります!」という話より、コレとコレはバカな話だと書く方が、書きたくてもなかなか出来ない。非難されて怒られるのが嫌だなんていう精神構造が蔓延していて。これを広い意味において厨房と呼ぶ事で安堵している。

私は、梅田氏の前の本を読みましたが、40p読了で返却。わかりやすい表現には必ず罠があり、わかりやすさにマインドコントロールされている。わかりやすさを求めるならば毎日の生活を見直すことが先で、自分の置かれている状況を肯定的に捉える為の情報は気休めでしかないし、サバイバルな感性に欠けてしまう。
明日、テポドンが飛んでくる可能性についての配慮が無い。これは某国間での問題ではなく、家族を含めた数少ない親しい人間達との生活を破壊する問題。はてブを見ていてもレバノン情勢などに言及しているエントリーは見受けられない。あるのは、ウェブ、テクノロジ、ビジネス、Wii・・・
感情的にこんがらがっていて解決の糸口が見当たらない問題は、見てみぬふりをするのが、日本の慣わしでしょうか。もしくは人間の本能でしょうか。


http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20061212
話は戻って、池田先生の言及にビジネスマン梅田氏から何かあるのか楽しみです。池田先生も人気者の梅田氏に矛先を向けてポジティブバカに荒らされても困るので、防衛感覚が働いているように感じます。そこに人間性を想像し、日々戦々恐々の中であると感じたりするのでした。