「不意にやる気がなくなる」その理由とは?

http://blog.tatsuru.com/2006/12/19_1116.php

内田氏(これ以降はウッチーと記載します)*1が、このエントリーで言っていることを私なりに解釈をすると、「若者のみなさん、ごちゃごちゃ言わずにまずは得られた働き口で自分の力を発揮してみてください。その後に仕事とどんな風に向き合っていくかを考えてください。まだ、何も始めていないのに、もしくは、先入観などによって、ヤル気を失うのは、ワガママです。だいたい仕事とはツマラナイ作業です。そして楽しい作業が仕事になるのは、今そのツマラナイ仕事を続けていく事で開眼するかもしれません」という前向きな話だと思う。それをこのような論調で書くのは、若い人間に肯定的であるよりも否定的な切り口で語るほうが、若者からの反発が得られ、「爺さんにごちゃごちゃ言われるのは嫌だ」という理由で動き出す人が少なからずいると思っていると、私は、そう思う。たしかにジジイは、口うるさいがPeer to Peerで話をすると負けそう位が嬉しい。バブル世代な40過ぎの永久にツマラナイ話よりは、生産的。
しかし、不意にヤル気が無くなり無職になる可能性を考える人間がいるのは、仕事に対してやりたいことが出来ず(やりたい職種でなく)ヤル気が無くなるからではなく、仕事にやりがいを求める理由に変化が訪れているからだと考える。それは、物質的な対価によって得られる幸せが底をつき始めており、カネでは得られないエクスタシーを仕事に求める傾向だと考える。逆に言えば、自分が気持ち良ければ、職種はなんでも良いという傾向。実際にデザイナーになりたくてなったけど、思ったような快感が得られなければ、ヤル気は無くすような。*2
バブル崩壊以降の世代として感じるのは、自分の親の世代では、常にある程度の成長を保ち、今までに無い生産物(三種の神器)などが登場し、働く事でリアルな生活環境に変化があった。テレビは、最初ダイアル式だったが、次のテレビではリモコンが登場し、その次のテレビは薄くなって大画面になった。遊びも急速に多様化し、スキーやサーフィン、海外旅行にも行ける様になり、働いた成果として自分が求めている新しい事をを手に入れられた。けれども、バブル崩壊以降の世代にとっては、これらの経験は全て子供のうちに済んでしまっていて、働いて得られた成果を自分の為に使う窓口が少ない。というか、子供の頃に経験した生活を一人で維持する事さえもすでに難しくなっている。これに対して「裕福な時代に生まれた子供達が贅沢を言っている」というのは、おかしな話だと思う。その時代に生まれた事は偶然で、生んだ親が進化していく様を隣で体感していた事が避けられた事とは誰も言えないはずだし、親は自分の知っている新しい世の中を子供に教える事を惜しむ理由も無い。その為、働いた事に対する対価の上昇だけではなく、その仕事をやっている事に対する充実感を求めるのだと思う。
この「仕事で充実感を得る」という発想をまず止めるのが話が早いと私は思う。人生において仕事が占める時間の割合は大きいが、それに100%打ち込まなければ良いだけの話である。隣の席の人間が200時間以上働こうと貴方は6時に毎日帰れば良い。与えられた仕事の分量が多ければ、法定時間内で終わらせる為の工程表でもつくり、期間をもらえば良い。憲法で働く事が義務だとするならば、義務の範囲で仕事をこなせば良い。そうすると会社のジジイ達はこんな風に言うでしょう。「生産性があがらない」「正社員としての自覚が足りない」「会社への貢献度が低い」このような社会や会社への帰属意識を振りかざす団塊の世代には、こんな風に言いたい。「貴方達が学校の講堂にこもったように、僕たちは家の中にこもるのです」「社会に対するフラストレーションが火炎瓶を投げても解決できないみたいだから、何もしない事で戦っているのです。」隣の席の人間が200時間働いている時間も「もったいない」し、それに付き合って帰れないヤツはバカだし、「一生懸命かどうか?」という物差しで判断する上司には、母親のケツの毛でも抜いていろと言いたい。
結局は仕事における中毒症状を賛美したり、依存性を自慢したりする考え方が大きく影響していると考えます。これらの中毒から脱却した事を責めない社会にする事で、憲法の義務の範囲で仕事くらいするかなぁと思えるようになるのでは。と。

*1:高校時代の友人がアクドイ代理店業であり、飲んだくれであり、麻雀打ちである著名人にはユーモラスで好意的な呼称の方があっていると思うので

*2:ここで言う快感とは、「周りの人に頼りにされている・好かれている」など、かなり無価値なものだったりする事も良くある。そんなヤツは、迷惑だからとっとといなくなって欲しいというコチラ側の話もある。