にわとり以下のあなた。

http://blog.livedoor.jp/niwatori5555/archives/50879871.html

上記のエントリでは、パフォーマティブな言葉の利用について、人を幸せにするウソをドコまで許容するか、結果から理屈を作る手法の良し悪し、のような点について言及されていますが、ここでは、異なる視点*1から、「貴方のニワトリ以下の生活」について。

鶏は、本当は冬は卵を産みません。日が短くなると産卵ホルモンが止まるようにできているのです。ところが人間は冬も卵が欲しいので、ライトをつけて冬も産卵を続けさせます。

 しかし、そうやって無理に産卵を続けさせても、いずれ限界がやってきます。割れやすい変な形のカラになったり、サイズが大きくなりすぎたり、産卵しない日の頻度が高くなったりして、結局その鶏群からはあまりいい卵が得られなくなります。そこで、完全にダメになってしまう前に、人間の都合のいい時期に産卵を休ませるのです。

養鶏では、卵を産ませる事が目的の鶏により多くの卵を産ませるために商品価値のない卵を産む鶏にはラマダンを経験さた後に餌を与え栄養の吸収率を上げ鶏を超回復させる裏技的手法が紹介されているが、貴方は、完全にダメになってしまう前に休みを取る事はできるだろうか。
市場で評価される卵を産む事は鶏に限った話ではなく、人間の生活においても多くの時間をこの「卵を産む」ために使っているのは間違いない。毎日では無いが卵を産まず生き続ける事は、大変難しい。しかし、すでに卵の形は変形し始め市場価値の下がった卵を産んでいるが、生み続けないと生きていけない養鶏場*2から抜け出すことが出来ない状況になってはいないだろうか。考えるべき点が沢山あるように思う。
ここで言う卵とは決して金銭的価値における話だけではなく人間関係や生き方にも関与すると考えると、とてもヒトゴト*3とは思えない。親族関係に心を痛めている人、毎朝デパスを噛んで会社に行く人、そのような様々なストレスの蓄積は、知らない間に積み重ねられていく。もちろん、ストレスがあるからこそ前向きな人生があると思うけれど、「割れやすい変な形」になっても卵を産み続ける必要はおそらく無い。人はニワトリとは異なり自分の意思を持って休養を取る事が出来る。しかし、それを許さない環境が世界中に無数に存在している。その時、許さない環境に順応したかの様に振舞いながら変形した卵を産み続けるか、それとも自主性を持ったシカト行為*4が取れるかは、一つの分岐点となる。
許さない環境を構成している人々*5を全部攻め立てる事は出来ない。なぜならば、それは疲れていたとしても、その人々に対して好意的でない事と同義では無いから。そして、全ての環境を否定する事は他の意味を持ち、結果については語るべきでない。けれど少なくとも追い詰められた他者を発見し、自主的なシカト行為の対象として選ばれたなら、「大丈夫?」などと安易な言葉をかけるのではなく、そのシカトを柔らかく忍耐強く受け止められる事の方が「優しさ」に近いと私は思う。逆の言い方をすれば、全ての環境をシャットダウンさせるのは、心無い安易な「大丈夫?」である。忍耐の結果として離散してしまう事もある。だとしても人間の間に生まれる共有感覚や信頼と言うものは、そんなに簡単になくなってしまうものではない。*6だからきっと、離散の後にまた出会うだろう。

最後に、最後の段落を読んでいて「何、クサイ話してんの?」と思った貴方は、産んでる卵にウンコがベットリとついていないか、少し考えてみてください。

*1:というか、同じ話かもしんない

*2:社会や会社や人間関係

*3:ニワトリゴト

*4:誰かをシカトするのではなく、自ら自分がシカトされている状態に選択的になる行為

*5:ヒトだけとは限らない

*6:テレビでやってるドラマとは違う。無言語環境で成り立つ感覚