鎖の自慢

http://d.hatena.ne.jp/ochame-cool/20061217/p1


「僕は貴方より沢山働いている」を測る方法は、時間ではない。時間の長さで「私はこれだけ頑張っている」と言うのは、いかに中身の薄い時間を過ごしているかの裏返しであって、人生の有限な時間を無駄に過ごすように仕向けらた愚民政策に多くの人が乗っかっている事を示しているように感じる。


どれだけ貴方が頑張っているかは、それに打ち込んでいる時間の長さで測れるわけで無いし、打ち込んでいる作業では、いくら時間をかけたとしてもそれに対して不満は少ない。多くの時間を割いている事に不満を感じるのは、その時間を本当は他の事に割り振りたいという欲求がある事を示していると思う。しかし、その欲求を履行する為に必要なのは、実は時間ではなくカネであって、そうなると本当は時間を持て余している。
「カネも無いのに時間だけあってもどうにもならない」
この心理につけこんでいる。


カネは、例えば自分で作れるスパゲッティーをコンビニで購入する様に、時間を買う為に使われる。スパゲッティを作るにも小麦が必要で全てを一人でまかなう事が出来ない時間的な制限を乗り越える為にあり、カネは効率的な生活と分業を提供する。問題は、この高効率化された生活時間の中で新しい発見をするのではなく、持て余した時間を金銭と交換し、さらに効率的な時間を過し、そして持て余した時間を無駄に過し金銭と交換するという奴隷的ライフサイクルにあると思う。このライフサイクルに私を含めて全ての人が少なからず帰属しており、その中でも中毒症状が顕著な人々や均一である事だけに安心感を感じる村民感覚は、「隣のアイツも奴隷だから、オレも奴隷で良いだろう」「ここにいれば、とりあえず時間1500円になる」方が良い奴隷的発想の蔓延により、ホワイトカラー・エグゼンプションに反対している。


もちろん、雲の上の人々がそれを見越して言っているわけだから、反対をせざるを得ない状況だけれども、本質的には、この奴隷的発想、村社会的共通意識から脱却し、持て余していると思われる時間を効率化によって忘れてしまった作業に再割り振りするかを議論するべきだと思う。会社の自席に夜遅くまで座っているのではなく、家に帰り夕食後の皿洗い、洗濯を畳む。何でも良い。そのような身体性のある時間の流れの中で突発的な「気づき」をもって理解がもたらされたり、身近な他者とのコミニケーションを促進したりする価値は、カネで得る事が難しい。