なぜ科学を信用するのか

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50723326.html

もし科学的にしか物事を「信じる」ことが出来ないのであれば、ある理論の説明を信じる資格があるのは、それを実験で自ら確かめた人だけ、ということになります。「信じる」にあたってはそれが理想ですが、物事の判断に必要な理論をすべて自ら検証するほど我々の人生は長くありません。

その代わり我々がとった手段というのは、自ら検証する代わりに、それを検証した人々を「信じる」というやり方でした。アインシュタインの理論が広く「信じられている」のは、それを信じている人々が自ら実験したためではなく、まず実験した科学者たちを他の科学者たちがそれを「信じ」、それを見た人々が「彼らがアインシュタインを信じるなら私も信じる」という信用連鎖が起こった結果です。

上記の引用で科学者が他の科学者のある理論について信用するのは、その科学者のバックグラウンドやその科学者の理論を信用した著名な科学者などにより信用を得ている。しかし、本当ならばそれ自体が正しいかどうかについては、実際にそれと同じ実験を行い、理論と同様の現象が得られた科学者のみとされている。しかし、これは、専門的な学者間での話であると考える。では、科学者でない一般の人たちはどうやって科学を信じてるか?

今、私は目の前のキーボードを打って文字列を作成している。このキーボードには、アルファベット1つに1つのボタンが割り振られており、"k"を押すと"k"と表現される。ごく基本的な話だが、私はこれが「科学が信頼に値する」と認知できる経験だと考えている。数学的に示された理論は、私を含めた一般の人には無縁な数列でそれについて様々な試験結果の説明を受けたとしてもそれを理解する事は難しい。しかし、キーボードの"k"を押すと"k"の文字が表示されるという経験は、だれでも理解のできる事象である。これらの経験は、毎日毎日拒否する事が出来ない頻度で発生している。住居としている構造物も今日はいてきた黒パンツも目も前の液晶モニターもすべてこれらの経験を提供している。

この日々の経験が科学に対する信頼を構築しているが、そのデメリットがエセ科学である。水の伝言でいう「ありがとう」の水「ばかやろう」の水の差異を「科学的」と感じるのは、今までに一般の人々が「ありがとう」「ばかやろう」という言葉を使った際の反応からの経験と捏造された実験結果がキーボードの"k"を叩いた経験と近似だからである。

科学者同士において理論の信頼性が信用の連鎖で成り立っている*1のは、多数決で理論の信頼性を得る手法では科学的真実に近づかないという科学者なりの考えが作用しているように感じる。しかし、一般に利用可能な状態では、その科学的各論については知る事はできず、学ぶ時間も無く、学ぶ能力が全員に備わっているわけではない。けれども、体験として科学の安定性、信頼性が町中にあふれている事により、「科学的な話は真実だ」と思い込んでしまう。なによりも「目で見てわかる」のは、言語理解よりも端的に理解しやすい。この点がエセ科学が流行する問題の原因だと考える。騙された要因はこの辺にある。

最後に、これらの事に注意深くなる必要が今の社会構造では必須となった。注意を向けるべき対象はエセ科学だけでなく、テレビや新聞、悪質な宗教からブログに至るまで懐疑的な視点でいる事を半ば強要されているとも言える。*2これは、また別の話になるが、この状況が生んだ歪みによって、隣近所の人間との希薄な関係、知らない人への懐疑的な眼差しとなり、最終的な状態として精神疾患を伴うトコロまで問題が及んでいる。だからこそ、信用できる事や人とは何か?誰かの言っている事が信頼出来るのか?そして、誰の言っている事が好きなのか?と言うことを織り交ぜて考え、目で見える事実だけではなく積みかねた経験や信頼のおける他者の助言を活用し、ある一つの信頼が崩壊した時に困惑しない多様性を獲得する事が、エセ科学精神疾患を減少させる視点ではないかと思う。

*1:実際は、正しくない理論の上で他の科学者が研究を行えば、バグが発覚し、理論の修正を迫られるはずだが、それが科学の世界で行われていないとすれば、後々には大変な事が起こると思うが、その話はそんな話が煮詰まった時に。

*2:このブログは懐疑的な見方を推奨しています。